水曜日, 1月 11, 2006

妄想世界 (1)

どうして自分は他人じゃないのだろう、と思うことがある。
別に人がうらやましいとか、そういう意味じゃない。
なぜ自分は自分の体の目から見える景色を見ていて、考えていることがわかるのに、人の見ている景色や考えていることはわからないんだろうか?ってね。

自分ってのは、手とか足とか脳とかのパーツから出来ていて、それらは細胞の塊だ。細胞は一つ一つが命であるから、自分も命の塊なのかなあ。

アダムとイブの代わりに、宇宙には巨大なエネルギーの塊があり、二人の愛の代わりに、大きな爆発があり、宇宙が生まれた。そのエネルギーは、アインシュタインがE=MC^2と言ったとおりに、物質を作り、星を作り、大地が出来て、生き物が生まれた。だったら生き物ははじめからいたわけじゃなく、単に、物質が動く形のひとつの形態に過ぎないのではないか?

人が死ぬと、意識はなくなってしまうけれども、もし土に埋められれば、それは蟻とかミミズとか、バクテリアとかの栄養になって、自分の命ってのはばらばらになるけれども、なくなるわけじゃない。
命にならない部分は、あるいは空気を動かす風となる。
そんなことを、地球は一つの生命だと描いた火の鳥を読んで、同じことを考えているんだなと驚いた。

荒木飛呂彦は、人間は勇気があるから素晴らしいと描いていたけど、その指の先ほどの大きさしかない蜂だって、巣や仲間や卵を守るために自分より大きな蜂と戦おうとする。

もしも神様がいたら、、、人間は自分のことを賢いと思っているかもしれないけど、犬や猫や蟻や兎と知能の程度も知識も何も変わらない、どんぐりの背比べだと、月に行ったことを人類の英知の結晶だと誇りに思っているかもしれないけど、所詮はお釈迦様の手のひらの上、テントウムシがやたら上に上りたがるのと何も変わらないよと言うかもね。

よく知らないけど、こう考えていると、一寸の虫にも五分の魂とか、輪廻転生なんてのに通じる気がして、こういう思想は仏教的じゃないかと思う。

ま、そんなことをたま~に、ぼけ~っと、シャワーを浴びながら、ゲームのことを考える合間に、考えてしまうことがある。

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